4月16日放送 #51 日本遺産 明治の矢板
4/16放送 #51
テーマ:日本遺産 明治の矢板
案内人:津野田 陽介さん(矢板市教育委員会 学芸員)
○今回の発見!
・矢板武と印南丈作が、水利が悪く水田に向かない那須野が原に那須疏水(用水路)を引いた
・栃木県の県北地域では、地域の偉人として矢板武と印南丈作について授業でしっかり学ぶ
・矢板市が大きく変わるきっかけとなったのは、明治になり旧国道4号線が開通したこと
・一説には、矢板武邸を目指して旧国道4号が敷かれたという話もあるほど、重要な人物だった
・現在の矢板武邸は、矢板武記念館(0287-43-0032)となっていて、母屋や長屋門が市の重要文化財に指定されている
・矢板武邸は、平成9年ごろまで子孫が住んでいた 平成10年に記念館としてオープンした
・矢板武邸は日本遺産に認定されている
・世界遺産は、文化財を守ることが目的、日本遺産は、地域の活性化に活かす仕組み
・明治貴族が描いた未来~那須野が原開拓浪漫譚~というストーリーが平成30年に日本遺産に認定された
・勝海舟が矢板武邸を訪ずれた際に描いた書がある 勝海舟は矢板武邸を「聚薼亭」(しゅうじんてい)と名付けた 意味は、薼まみれになり働いている人々の集まる屋敷
・明治になり衰退の一途をたどった徳川家ゆかりの資産 徳川家を代表する日光の社寺を守ろうという「保晃会」という活動に勝海舟は感銘を受け矢板武邸を度々訪れたと言われる
・保晃会の活動が日光の社寺を残し、現在の世界遺産へと繋がっている
・明治になると国を強くするために大型農場を作られていった 食料の確保が目的
・農場を作るには、水が必要だった そこで、那須疎水が引かれることになった
・矢板武は、初の私鉄 日本鉄道(後の国鉄)の初代理事
・総理大臣も努めた山縣有朋も矢板市・那須塩原市一帯に開拓農場を開いていた
・矢板市の特産品であるりんごは、山縣有朋が大正3年に青森から技師を招き、りんご栽培を始めたとされている
・現在の山縣有朋記念館は、関東大震災後に別邸であった建物を小田原から移築したもの
・山縣有朋記念館(0287-44-2320)幕末からの資料を閲覧できる
・山縣農場に努めていた管理人が描いた絵巻物で当時の様子が詳細にわかる資料が残っている
・当時の応接室がそのまま残っている 家具も当時のものだと言われている
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